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どんなに微細なものであれ、そればかりが寄っていれば、何らかの“気配”となって強調される。同じ無でも、同じ“零”でも、どこかが違うと分かるのが、同じく精気を満たされて存在する生き物の、生き物であるがゆえの感受性。雪の降る音、積もる音。聞こえないのに“分かる”不思議。あったはずのものが、あまり印象には無かったものが、でも、いつの間にか無くなると途端にその欠落へ違和感を覚える不思議。何も“無い”ことが、気配が“無い”ことが分かる、不思議。何も無いと“無い”ことが主張される不思議。この陽世界は、実はいつだって何かしらに満たされていて、肌触りのいい静寂や無の実態は、様々な気配がどれも微細ずつながら適度に混ざっていればこそのもの。剥き出しになった何かを警戒しなくていい、無防備に晒されている自身のどこかを意識しなくていい。何物かに凝視されている不安を感じることのない、覚えのない敵意を感じることのない。互いを互いで互いに紛れさせてしまうことで、さしたるものがいる訳じゃあないとし、警戒させず安堵を与える。それが心安らげる温かな静寂。何も無いことへ落ち着けるのではなく、そんな静寂、そんな安堵に包まれていることに落ち着くことが出来る…というのが実は正解。
――― 真の虚無暗闇と、真夜中に満ちる夜陰は、別物。
◇
始まりは、それはそれは巨おおきな精気の塊。それ自体にはさしたる警戒も要らないはずの、そこいらに散らばっている、ありふれた、無害な精気の塊に過ぎなかったのだけれども。粉塵爆発というものがあるように、あまりに細かいものでも、大量に集まっていると、それはそれでやはり危険。何といっても立派な“生気”を保持しており、総量は大したものでもあるのでと。万が一にも間違いが起こらぬように、危険が生じた時のため。古人曰く、花火を遊ぶときには防火バケツを用意しましょうの伝に倣って。(おいおい) 腕に覚えの天聖界最強コンビを呼んでおくという、一応の用心をした上で。慎重に慎重を重ねて、執り行われた移送作業。こうまで万全を期したのは、ひとえに何事も起こってくれるなと思ってのこと。なのに、どうして。こんなにも慢心のない心掛けをしているというのに、何でまた“用心しといて良かったねぇ”という、つまりは悪い方向へと事態が展開するのだろうか。………もしかしてあんたたちの内の誰か、彼の有名な“暗中殺”なんじゃあなかろうか?(こらこら)
――― 不意に接近して来た不穏な気配。
途轍もない生気に満ちていることが見る前から察知出来たほどもの、しかもなかなかに挑発的で鋭敏なる何物かが。彼らのこしらえた結界へと目がけ、警戒警報も宣戦布告も無いままの、無謀な突撃を敢行せんとしてくれていたものだから。下手を打てば水爆級の爆破反応が起きていたかもという危機さえあって。聖封様がその機転で咄嗟に張った小型障壁にて、直接接触だけは何とか免れることが出来たものの、あまりの急接近なんて事をされた影響はやはり及び、
――― うおぉおおぉぉ〜〜〜〜んんんんっっ
単なる夜陰、ちょこっと濃厚な夜気の集まりだったものが。どういう反応が起こったか、互いの結合を強くすることで何物かへの“変化”を始めてしまい、
『…不味いな。暗転変化しかけとる。』
単一細胞が集まってレベルが上の存在へと進化した、というのなら、まだ宥めようもなくはなかった。強引ながら枷なり軛なりを嵌めて、とりあえずはと亜空間へ誘導し、そこで対処を考えるとかすればいい。慣れさせることが出来るのなら重畳。気を長く持って、コミュニケーション手法の研究でもすりゃあいい。だが、今回起きつつあるのはそんな穏便な事態ではなく、内へ内へと複雑堅固に絡み合った連結が、そもそもそういう間柄じゃあないものだっただけに、よりややこしい“迷走状態”になってのそれと化しており。早い話が、デタラメのがんじがらめ。もつれにもつれた代物になってしまったその結果、絡み合い方の密度が途轍もないが故に、空間のねじれを誘い、反転反応が起き。容積は縮みつつあるが、その分、虚無空間へのゲートへと…つまりは“ブラックホール化”しているのだそうで。次元と次元の狭間や、迷宮状態になってる虚無海へつながってでもいた日には、
“その肉体、殻器を粉々に粉砕されるか蒸散させられてから、魂の方は…そうだな、一生なんて軽いもんじゃあない、未来永劫の永遠レベルで。漆黒無音の虚無をさまよい続ける、幽的存在にされちまう。”
そんな危険なものが不用意にあちこちにあろう筈もなく、おのおのの次元世界における様々な“存在”や“結合”の歪みや誤差、矛盾などが、何かしらの法則だか許容だかを大きく外れた時に現れる…とか言われているものの、天聖界でも未だその詳細は解明されてはおらず。よって完全な対応策も不明なため、それへの対処となると“近寄ってはいけません”とだけ明示されているのが現状だそうで。
――― そこで。
出来るだけ小ぶりな状態へ至るまでその収縮を待ち、いよいよ縮んだところへ、それは濃厚に練り上げた強靭な陽的念咒を叩き込んでの相殺昇華。反応が止まったところで容赦なく亜空間へ蹴り込んでやろうと段取りが定まり、それではと。他のものが吸い込まれることを遅らせるための代替と、それからそれから、その塊自体を急速収縮させるべく。巨大な剣撃の圧を渾身の力を込めて喰わせ続けたゾロであり、そうやってる間にサンジの方は相殺用の念を練り上げるという、緊急事態対処斑が動き出しての的確な手当てが取られようとしていたのだが。
――― うおぉおおぉぉ〜〜〜〜んんんんっっ!!
周囲の物質を手当たり次第という勢いにて、喰らい始めていた厄介な存在。密度が増したことで強力になった“重力”により引き摺り込んだもろもろを、組成崩壊させては負界へ誘う。そんな危険なゲートと化していた状態を黙らせるべくの、陽的念咒を何とかぶち込み終えて、何でもかんでも吸い込みまくっていた現象・状態を相殺して止めることは出来た。ところが。やっと黙らせることが出来たと思った次の刹那に、プラスマイナス・ゼロへと持ち込めていたはずの“対象”が、別な変化を遂げており。
『………何だ? あれ。』
大きさは縮んでも、その姿・形態はそのまんま。輪郭のおぼろな、ぼやぼやとした存在だったはずの夜陰の塊…だった“調伏対象”が。つややかなシルクのスカーフに虚ろにも空いた、巨大な虫食い穴のようだった夜陰の生気だったものが…何が起きたか、どう転んだものか。とある“物”へと姿を替えている。いやさ、それまでは“気体”状態にあったようなものだったのだからして、姿を“与えられた”と言った方がこの場合は正しいのかも? 何しろ、その姿。この土地、この国の人間たちには、たいそう馴染みがあるっちゃある存在だったからで。
『…鬼だな。』
『ああ、鬼だ。』
獣のそれのような剛そうでごわついた髪を頭にざんばらに振り乱し、その隙間からは黒光りする太めの角を1対、生やしていて。人に似た造作の顔に座るぎょろりと剥いた目玉もどこか黄味がかっており、口元には やはり黄ばんだ牙がぬらぬら光ってはみ出した。ほとんどあらわな筋肉質のごりごりとした肢体も腕足も野性的な、人型をした妖怪や魔物の一種。単なる夜気から転じたブラックホールが、そうまでくっきりとした“別物”に変わり果てていたから、これはもう…彼らの想像の域を越えている現象としか言いようがなく。
「鬼っての自体が想像上の生き物だろうが。」
「まあな。」
こらこら、事態を投げなさんな。こうなってもやっぱり あんたらにしか対処出来んことでしょうが。
「まさかとは思うが、あれって…陰体固化じゃねぇかな。」
「封印術のか?」
単なる夜気とかブラックホール。それらは、ぶっちゃけた言い方で彼ら陰体にも“手で触れることの不可能な存在”であり、陽世界で言うところの“気体”にあたる。
“気体っていうのも、厳密にいやぁ分子としての存在ではあるだろう?”
そうですよね。正確な言い方をするならお互いの結合がほどけた有り様になっているだけで、氷も水も水蒸気も“H2O”であることに変わりはない。それと同じ理屈での、気体がその成分は変えぬままにまとまりを持った現象が、サンジが口にした“陰体固化”という代物らしいが、
「…なんてことを しやがるかな。」
唐突に出現した異形の化け物を、忌ま忌ましげに見上げてる、白く整った横顔は、だが。理解したればこその、別な緊迫に引き締まっており。事態への把握は出来たものの、ますますの“とんでもないこと”だと言いたげで。
「掴みどころがない状態の精気を、手っ取り早く固めて固定し、一片余さずに取っ捕まえるのに使われる手立てだが、本来、こんなまで巨大なもんに使う咒じゃあない。」
何故ならば、対象全てを変換させるためにと、術を連動させるのに途轍もない咒力が要るのと、
「ただでさえブラックホール化してたほど結合が密になってたもんへ、こんな力技を繰り出したら、急激な変化についてけなくなるから…っ。」
何も本物(?)の鬼という生き物になった訳ではなかろう。これは都合上の形に過ぎないに違いなく。
「サンジさんっ、ゾロさんっ!」
呆然としている彼らの元へと駆け寄って来たのが、
「ビビちゃん? 何で居残ってんだ?」
彼女の実力を軽んじるつもりはないけれど、それでも…どんな事態へも投入されるほど頑丈強靭な自分たちに比べれば、この場に居残っていては微妙に危険なレベル。それもあって驚いたような顔を向けたサンジへと、
「あの子がっ! さっき飛び込んで来た不思議な子供が、何かしたらしくて…っ。」
彼女がその身を拘束していたものが、あっさりと抜け出されてしまったらしく、しかも…せめてその動向だけでも見逃すまいと見やっていた先で、楽団への指揮でも操るかのような所作をした彼だったのを目撃した直後のこの顛末。
「…っ、なんてガキだよ、ったくっ!」
一体どこの何者なのだか。こっちの彼らが取っていた“対処”を見ようともしないまま、勝手なことをしでかしてのこの展開であるらしく。
「傍に現れたってだけで“こいつ”が収束連鎖を起こしたほどの存在には違いないとはいえ。」
これほどのことをこなせるだけの、能力、若しくはエナジーの持ち主ではあったらしいものの、
「後始末までは知らんらしかったな。」
憎々しげに呟いた聖封さんの傍らから、
「…っ。」
破邪さんの屈強な肢体が途轍もない跳躍を見せ、
「え?」
何をしようというのかと反射的にそちらを見上げたビビの体が、思わぬ浮力を得て、ふわりと持ち上がりそうになる。
「え…?」
「不味いな。こっから離れな、ビビちゃん。」
さっきサンジが叩きつけた濃密な念を得て、一旦止まっていた筈の地場嵐が、再び起き始めたような。そんな重力変化は、だが、状況的には別なもの。
「無理から固化させられたことで、結合バランスが狂ってやがる。ただでさえぎっちり絡み合ってたものが弾けての、大暴発が起きるぞ、こりゃ。」
言った途端という瞬技、自分の傍らに寄っていたビビ嬢のすらりとした肢体を…指先をパチンと弾いただけの所作にて何処ぞかへと送り出すサンジであり。そのまま見上げた宙空へ、
「あいつ…っ。」
しょっぱそうに眉を顰める。頭上高くへ先んじて跳んでった相棒が目指した“もの”がサンジにも見えていたからで。そんな中、
《 いっくぞ〜〜〜っ!》
空の高みからの声がして。デタラメに巨大な鬼の姿を見上げていた夜陰の…もう少し奥向きに、何者かがそこに浮かんでいるのが察知出来る。ゾロが目指したのもその“誰か”であり、
「馬鹿野郎っ! ぼやぼやしてねぇで、とっとと逃げねぇかっ!」
《 何だよ、偉そうにっ。今から俺様が、こいつを粉砕してやっから見てなって。》
そんなやり取りが聞こえ、
“やっぱりな…。”
地上でサンジがその肩を落とした。この事態の元凶にして、今また ますますの混乱を招いて下さったお客様。それが天空にいたのを素早く見極め、取っ捕まえにと向かったゾロであり、
《 固化すれば大した術がつかえなくて搦め捕れないようなレベルのもんでも、叩いてやっつけることが出来るようになるだろう?》
ちゃんと考えて取った作戦だ、どうだ参ったかと胸を張ったらしいその子供へ向けて、
「…その前に、陽体変換なんてとんでもないことが起きそうになっとるんだがな。」
《 え? 何、それ?》
どれほど濃密さを増していたとしても、まだ精気の一種であったのならば、相殺や中和という対処が取れた。だが、無理から強引に固化されたことで、片足引っかけていた陰世界に属すには矛盾した存在になってしまったことから巨大な歪みが生じ、それが弾けての途轍もない暴発が起きる。それも、陽界へも影響が出るだろう現象として、だ。
《 な、なんだよう。偉そうにすんなよな、たかが聖宮に仕えてる破邪のくせによ。》
子供としての小柄な肢体。つばのない帽子にサスペンダー付きの半ズボンと、爪先の尖った靴には踵のところにトンボのような透き通った翅はねが一対ずつ付いている。何とも珍妙な装束だったし、この亜空に飛び込んで来た異邦人だという事実だけでもう十分に、尋常な人間の子供ではない証しは立てており、ならば遠慮なぞ要らないかとゾロが思ったかどうか。
「こんの大馬鹿野郎っっ!」
問答無用ということか。腰の入った思い切りの怒声でどやしつけることで、
《 な、なんだよっ。》
一瞬怯んだ謎のお子様の、二の腕あたりへと手を伸ばし。そのまま…振り返りざまに、地上へ向けての大投擲。自分の身を反転したことをバックスィング代わりにしての、ぶんっと風切る力投は、
《 ひ、ひゃあぁぁ〜〜〜〜っっ!》
普通の落下以上の加速をつけて、小さな子供をぐんぐんと地上まで“送り届け”て差し上げた破邪殿であり。突き落とすとはまた乱暴な手を取ったその先では、
「よっしゃあ、捕まえたっ。」
《 わ…っ!》
地上で待ち受けていたサンジの張った、念咒の塊、気のクッションの深みへと無事に着地。ギャーギャー喚かれる前にと、
「ほい…っと。」
クッションごと、さっきビビを避難させたと同様に指先パッチン一つにて、別の次界へと送ってやって、
「ゾロっ、お前も降りて来いっ!」
何をどう勘違いしていたものやら、大丈夫だと高をくくって自分の咒力で宙に浮いてた坊主を引き摺り降ろすため。わざわざ至近まで飛翔して向かった翡翠眸の破邪へ、フォローはしたからお前も降りて来いと声をかけたサンジだったが、
「もう遅せぇみたいだ。お前だけ先に逃げな。」
「………なんだって?」
誰に向かって“逃げろ”だと? 反射的に立ち上がった反骨の感情が、だが、背条を走った強烈な悪寒によって易々と吹き消された。そのまま好事家がコレクションとして欲しがるのではないかと思ったほど、リアルこの上ない鬼の姿をひけらかしていた…陰の精気の成れの果て。それの輪郭がいかにも禍々まがまがしい紅の光に縁取られ、それが目映くなってゆくのに合わせてのことか、周囲の空気が静電気を帯びたようなチリチリとする嫌な気配を孕んでゆく。状況が一斉にもんどり打って、何処か何かへと向かってゆくのが肌合いで判る。あまりに勢いがあるがため、彼らでも制止出来ぬほどのものだという口惜しい事実までがくっきりと拾え、
「…っ!」
何事か言い返そうとしたのとほぼ同時、いやいや僅かばかり、向こうの方が先だったかもというのが鼻先に察知出来たのが、何とも悔しかったタイミングにて。
――― ヴォぉば………っ! と
まずは 空間に垂れ込めていた大気全体がどんっと弾けた感覚が、肌へとダイレクトに伝わり。次に襲い来たのが空間全部を満たした、触れた箇所が痛くなるほどもの灼白の閃光。同座していた存在という存在全て、どうかすると彼らがいる空間そのものまでもが、そのまま ほろほろとほどけて呑まれるのではなかろうかと思ったほどの、勢いと質量のあった光の奔流とともに、
「こ、これは…。」
キツく瞑った瞼の裏へまで真っ白に突き通った光が途轍もないエネルギーだったという、これも証しというものか。あの鬼もどきのいた方向から、凄まじい圧のある対流、疾風のようなものがこちらへと襲い来る。崩壊したことで内包されていた精気が解放され、それが保有していた力もまた、一気に放たれたのであり。あれほどもの大きさ・量の存在が暴発したのだ、それがささやかなものである筈もなく。小石が弾丸のような勢いを帯びた飛礫となって飛び交い、濃さにムラのある精気がランダムな念咒での無差別攻撃と等しい威力で空間を暴れ回っている。ジーンズのストーンウォッシュ加工ってのはこんな風にして施されるんだろうかと、新品なのにいきなりこんな扱いされてから出荷される衣料品の気持ちが堪能出来たなんて軽口を叩けたのは後日の話。攻撃的でさえあった、あの目映い光芒が何とか収まったのでと。恐る恐る、うっすら開いた視野の中。様々な闇がもみくちゃになっている突風から眸元や顔を腕で庇って辺りを見回しかかったサンジの視野に、
「なに…っ!」
他には誰もいなくなってた、そんな空間だったからこそ、真っ先に見つけられたもの。思ったよりも高みにいたらしい緑頭の相棒が、何の支えもないままに、頭上の空中、遥か彼方の高みから真っ逆さま、こちらへ目がけて落ちて来るではないか。
“そうか、陽体変換が…っ。”
あの、固化した陰の気配が弾けたことへと引き摺られてのこと。結合がほどけての暴走、陰体だったものが固化し、疑似陽体にまで変換しかけた末の、エネルギーの質の変化の凄まじさに巻き込まれたか。
“陰体じゃあなくなってやがるっ。”
凄まじい跳躍力にて飛び上がり、そのまま中空にその身を据えていられたのも、彼がそもそもは“陰体”であるからこそのこと。ここ、結界障壁で区切られし、特別仕様の空間にては尚のこと、殻器の要らぬ身としての行動も自在とあっての浮遊であったものが、
――― 陽界の存在や住人と同じ組成へ、その身が変換してしまったから。
となれば。陰体ならではな特質は全て消える。次界移動はおろか、その身を浮かべるなんてな咒の発動も出来よう筈がなくなり、その結果。重力の法則には逆らえず、堅くて重い身のまま、真っ逆さまに墜落するしかなくなる。
「………チッ!」
受け止められるよう間に合えよと祈りながら、先程、あの和子をキャッチしたのと同じ技、宙へと素早く印を切ったサンジだったが、
「な…っ!」
どうしたことか、腕からも手の先からも、それどころではなく体中からほとばしる筈の咒気が…欠片ほども滲み出して来ない。ままならぬ白い手を見下ろして、その青い眸を愕然と見張ったサンジであり、
「待てよ待てよ、おいおい、俺もか?」
同じ空間のそのまた間近に居合わせた事から、影響を受けたのはゾロだけではなかったらしく。知り得る限りのどんな咒の印も、発動の気配すらない現実へ、
「そんな…っ!」
他の時ならいざ知らず、今のこの非常事態にそれはなかろう。冗談抜きに総毛立ってしまった聖封殿が、
「くそ…っ!」
苛立ちを抱えたまんまで再び見上げた宙空では。嵐に流されてか随分とゆっくりながらも、着実に落下しつつある相棒の姿が…先程よりも大きくなっており。
「どうすることも出来ねぇのかよっ!」
いくら頑丈でタフだって限度がある。しかも今は、彼もまた…さっき弾けた鬼と同じに、砕けるだろう破損するだろう“身体”に意志が、彼そのものが同化している。魂さえ頑健であるのなら、この危機へも怯まずに、その身を強化するなりして、まだ何とかなったものが。今や手の打ちようがないと来て、
「く…っ。」
もどかしいにも程があると、爪が手のひらへ食い込むほど、その拳を握りしめたサンジがせめてと見守っていたそこへ。そして、
“さすがにやばいかな…。”
こちらも事態は飲み込めていて、手出しのしようがないのだろうなということへも察しがついていての…観念をしかかっていた当の本人もまた、自分の身体にかかる加速へ、うなじから背中から本能的な恐怖感から強ばらせかけていた…その刹那へと、
――― …………………。
遠い遠い遥かに彼方。湖面へぽつりと降り落ちた小さな雨垂れの響きよりも、かすかな何かが聞こえたかと思ったその次の瞬間、
――― …………………ぞろーっっ!!
漆黒さえも切り裂いての、凄まじい勢いで。されど、瞬間移動ではなき もどかしさ、距離を詰める手法は曲げられぬ身の、せめてもの必死の懸命さが滲んだ怒号とともに現れたのは。天巌宮宗家の御曹司、サンジに傅かしづくバラティエ家の関係者や天聖界からの助っ人、はたまた さっき追い出したビビちゃんではなく。
「………え?」
「あ…れ?」
宙空を一気に滑空して来たその背には、真珠の放つ健やかな輝きを孕んで息づく純白の翼が…1枚だけ。2枚で1組、一対の筈の翼を、ただ1枚だけ、されど力強く張り切っての滑空をして来た彼は、こちらさんもまた間近に寄れば相当な加速に乗っての落下中だった、大きな身体の破邪さんへと、横合いからのタックルを仕掛けており。
「…わっぷっ。」
抱きとめたというよりも、しがみついたという感の強い攻撃、もとえ、救助の敢行ではあったれど。とりあえずは捕まえたその途端、ヒーローさんの腕力や体格は関係がないのか、大きな翼が帯びていた柔らかい光がゾロへも広がり、それによっての浮力が生じたらしく。
「…助かったか。」
間一髪、命の危機だけは回避出来たらしい。生きた心地がしなかったところから、何とか心臓を引っ張りあげつつ見上げるサンジの視野の中、二人ともどもが…夜陰に黒く塗られた夜空を一旦上へと舞うように駆け登ってから、今度はゆっくりと、地上までを降りて来る彼らであり。これが逆の立場であれば、いつものこととて“お姫様だっこ”なり“子供抱き”なりをし、腕の中へと収めて来るもの。今回は立場が逆なので、小さな坊やはただただ破邪殿の首っ玉にしがみついてるだけという格好になっている。
――― そう。
この、とんでもなく恐ろしい危機へと文字通り“翔んで”来たのは、何と…お家でお留守番している筈のルフィだったものだから、
「これってのは、一体どういう…。」
一番に情況(ワケ)が判っていないらしいゾロがキョトンとしているのへと、
「やったぁ〜〜〜っ!」
傍らからしがみつき直した小さな英雄さんは、
「間に合わなかったら どうしようかって思ったぜっ。」
いやっほう、良かった良かったを連呼するばかり。いや、この場合、良かったには違いないのですけれど。………でもねぇ?
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*おおう、何だかややこしい展開になってまいりましたが…。 |